アンという名の少女

赤毛のアンを読んだことがない。

さすがに有名な本なのであらすじ程度は知っているが、アンが古道や湖?  にキラキラネームをつけるところなど、そのどうにもメルヘンチックな感じが肌に合わないなと思って避けていた。普通の湖を"輝きの湖水"と名付ける想像力と価値観は私にはない。"センター街"を"バスケットボールストリート"と名付けるくだりがあれば面白がって読んだかもしれない。最初、岡村靖幸が名付けたのかと思った。

 

謎の二つ名を人につけてくるやつは狂っている。中学生のころ、トーンを買いに行った私は(オタクだった、今もだが)、同じく客として居合わせた、ちょっと年上のお姉さんに突然「電子怪盗さんですか?!」と話しかけられてひどく困惑した。当然人違いである。誰だよ。他人にあだ名をつけた上、決めつけで話してくるその姿勢に狂気を感じた私はおびえながら「違います」と答えた。

この店には当時流行っていた「客同士の交流ノート(客が自由にイラストを描いたりできて、それに反応したほかの客と交流できる)」があって、この電子怪盗さんとはそのノートに登場する絵がやたら上手いユーザーのことだったのだが、なんとその電子怪盗さんは私の同級生だったことが後々分かるミラクルが起こる。同級生と分かった時、敵もむやみに声をかけてきたわけではなく同じくらいの背格好のものを狙って撃ってきたのだなと感心したが、まあ今その話は別にどうでもいい。

 

そういうわけで未履修だった赤毛のアンだが、ネットフリックス独自コンテンツとして配信されている「アンという名の少女」をこの度見ることになった。ツイッターで面白いと称賛するツイートがたまたま目に留まったからだが、これがその通り本当に面白い。まだS2E3までしか見ていないが、今週中には全部見終わると思う。

ストーリーはまだ見終わっていないので触れないが、これまでの映像化されてきた赤毛のアンとは多少違う毛色の作品のようだ。映像化された赤毛のアンをアニメでも映画でもなんでも見てきた人は結構な数でいると思うが、そういう人でも新しいと思えるかもしれない。

 

アンは孤児で、偶然初老の兄妹に娘として引き取られることになるのだが、この初老のところに来る前にいた家では奴隷のように働かされていた。罵詈雑言を浴びせられ、人格を否定され、厳しい折檻を受けてきた過去を持つ。で、紆余曲折を経て初老兄妹と巡り合い、幸せな日々を送ることになるんだが、彼女のもともとの性格だということを差し引いたとしても「ほう」と思ったことがある。それは、彼女が何か失態を犯しても「だから私はダメなんだ」「私なんて何もできないんだ」「私には価値がない」みたいな、ありがちな自己否定を一切しないことだ。

 

同じタイミングで漫画「私の幸せな結婚」を読んだ。おそらく日本が舞台で、孤児ではないもののアンのように周囲からつらくあたられ自己否定をされ続け育つ美世という女性がイケメン高学歴高身長高収入と知り合い幸せになっていく話なのだが、ことあるごとに「私なんて……」「私には価値がない……」を挟んでくる。そういう、過去の経験から深い闇にとらわれてしまった悲運の女性をイケメンやその周囲の親切な人間が救っていき、励まし、本人も自信をつけていき「私はここにいてもいいんだ!」みたいになる話のようだ。美世の自己否定が強すぎる性格は、日本社会の息苦しさとか、減点方式とか、そういう背景もあって主な読者層であろう10代~20代の若い女性に刺さるんだと思う。私もそうだけど、日本人のほとんどは「私には価値がない」と結構思ってるんじゃないだろうか。おこがましいとか、何もできないとか、そういうあきらめのような自己否定をごく自然に行える。だから、自分に美世が被り、美世がなにか否定するたび「そうだよね……」とため息をつき、イケメンや周囲に美世が励まされるのを見てはまるで自分が励まされているようで感動するのである。

 

アンがミスをしても、彼女は反省こそしているものの、そのミスそのものを反省していて自分の性格は一切反省しない。自ら価値を貶めることをしない。はたから見ても結構やばいミスをしているが、マジでない。この先そういう展開もあるかもしれないが、いまのところ一切ない。ここに、私はすごく「外国の話だな」と感じた。

日本だと美世のようになるはずだ。日本人の作者がそう書く。でもモンゴメリはそう書かなかった。アンは絶対に自己否定をしない。自分の素晴らしいところを、自分で理解している。失態だけを反省して、もうしないと誓うが、自分はダメだわみたいなくだりをクドクドと挟まない。彼女が恵まれているだけかもしれないし、虐待の中で周囲がそう育ててくれただけかもしれないが、そもそも「ミスする=自分には価値がない」という発想がないように思える。

 

自分に価値があると信じているから、冒頭にあったような正直他人から見たら寒いキラキラネームを湖かに平気でつけられてしまうし、それによって他人にどう思われるも関係ない。自分が自分に価値があると誰よりも信じていて、それで充分だと思っている。だから誰かにキラキラネームを打ち明けることにおじけづかない。アンの寒いところを嫌がる人は大勢いるけど、懲りずに発信し続けることで、アンは自ら仲間を得て、イケメン高学歴高身長をゲットする。美世は待っていたら王子様が登場した。王子様が美世の価値を認めてくれることで、美世も自分の価値に気付ける。アンはフォロワーがいてもいなくても関係なく、アンとしてあり続ける。

 

どっちがいいとか悪いとかいう話ではない。アンと美世、逆の国で描かれたら逆の性格になっていたと思う。それだけのことだ。どの国で描かれた作品かによってこんなにも違う。アンが歩んでいく道を見ている日本人の私は、話には聞いていたが本当にこういう考え方もあるんだ、と目覚める思いだ。

そんな、ものすごく"外国感"あふれる「アンという名の少女」、超おもしろいのでぜひネトフリ入ってる人は見てください。映像もきれいだよ。でもさすがのアンでもいきなり他人を電子怪盗呼ばわりしないけどな。